会計の公理的理論が普及していない理由を考える

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『簿記・会計の公理化に挑んだ天才たち』では会計の公理を提示した偉人たちを紹介しています。

このような研究がありながら、現代においては会計理論を公理的に扱うという大きな潮流はありません。

本記事ではなぜ、会計の公理に関する研究が普及していないのか考えます。

抽象化することのメリットが薄い

数学における公理は、議論の出発点を共有する効果があります。また、異なる対象であっても同じ公理を満たす対象としてとらえることで、物事の見通しが良くなります。

会計において公理を考えると、そういったメリットは享受できるのでしょうか?

 

議論の出発点を決めるというメリットが会計にも当てはまるか

会計において、例えば新しい取引が発生したときにどのような会計処理を行うべきかという議論を行う際に、議論の出発点を共有するのは重要なことです。

現状の日本の会計基準の設定背景をみると、議論の出発点を共有できていないためにおこる主張の齟齬が随所に見られます。会計基準として公表されている資料には「結論の背景」という意見整理の文章が含まれており、そこで議論の内容を(わずかながら)知ることができます。

会計基準を定める際の主張の齟齬を、会計基準の設定当局は「人間によるディスカッションで」解消しようとします。そして(たとえ解消できなくても)実務への影響や海外基準との整合性に鑑みて、最終的に一つの主張を会計基準として設定します。会計基準は社会的ルールですから、この会計処理が絶対に正しい!と結論付けられることは少なく、賛成反対を織り込んで妥当そうな結論を基準として公表します。

このように、たとえ会計の公理が定められ数学的に演繹された会計ルールが導かれたとしても、現状のやり方ではそれが採用されるとは限りません。

人間のディスカッションで会計ルールが決まるという現状では、いかに公理を定めても、公理から独立した主義主張に基づいた別の「あるべき論」が存在しうるということになります。

従って、議論の出発点を決めるという公理のメリットは、「公理に賛同しない人の存在が十分想定される」という理由から、少なくとも会計基準設定の場面では妥当しないように思えます

ただし、議論の前提とそこから演繹される当然の帰結が示せるという意味で、メリットは皆無ではありません。

実際、討議資料『財務会計の概念フレームワーク』では、財務諸表の主な構成要素に対して明確な定義をおき、それに基づいて種々の会計基準に指針を与えるというスタンスが示されていました(これを演繹的アプローチと称する場合もあります)。

 

異なる対象を同じ視点で見るというメリットはあるのか

会計の公理を定めることで、一見して会計とは異なる対象が、実は会計と同じ構造をもっていたという気づきが得られる可能性があります。

逆もまた然りで、会計がある公理を満たす数学概念の一つであるとわかれば、すでに知られた性質を会計に持ち込むことができます。

このように、公理には「概念の輸出入」を促進する効果がありますが、現状こうした取り組みが会計界に大きな成果を上げたという例を、私は存じ上げません(勉強不足、または認識できていないだけかもしれませんが)。

今後、会計の数学的構造が理解されていくにつれて、他分野との関連が見つかるかもしれません。

ただ現状は「会計を抽象的にとらえることで別分野に貢献する」「他の分野の知識を活用するために、会計を公理的に定式化する」ことの重要性はあまり認識されていないように感じます。

 

公理化が徹底できない

会計は現実世界における企業の活動を複式簿記の枠組みの中で表現し社外に開示する行為です。

したがって何らかの意味で「企業の活動」という社会的なオブジェクトを数学的に表現する必要があります。

しかし実社会の出来事を数学的に表すというのは存外難しいことがわかります。

会計処理には実態・実質的判断を伴いますが、こういう「ジャッジメント」をも数学的に表そうとするのは困難です。

例えば「期中にペンを100円で買った」という取引があったとして、これを何らかの公理に基づき数学的に会計処理に紐づけたいと考えたとしましょう。

この取引は時間(期中)や、対象(ペン)、手段(円=現金)、金額(100)のような要素を含み、これらを数学的に表すことは可能と思われます。したがって適当な写像を公理から演繹し、この取引を

借)消耗品費100 貸)現金100

のような仕訳に対応付けることは可能だと思われます。

しかし、実はこの取引に「ペンは役員の私的目的で購入されたものだった」とか「期末において使用されずに備品庫にあった」という条件があった場合には、会計処理が全く異なるものになってきます。

このような実態判断を数学的に表現することが可能なのか、疑問が残ります。

公理を定めるということは「議論の出発点を定める」こととも言えますが、会計において議論の出発点を定めると、現実世界の変化に対応できないような状況が懸念されます。

会計の公理を提示したMattessichにも、その公理のなかで「法的・経済的条件が満たされているものとする」というような文言を用いています。ところが、法的・経済的の意味が与えられていません。したがってこの用語の解釈いかんによって結論が変わりうるので、公理的扱いが徹底されていない印象を受けます。

 

まとめと参考文献

この記事では、会計が公理主義的に構築されていない現状について、その理由を考えてみました。

公理によって会計を定めるメリットがあまり大きくないことに加え、そもそも会計を公理的に定める事自体の可能性に疑問があるというのが、私の考えです。

ぜひ皆さんのお考えも教えていただければ幸いです。

本記事を執筆するに当たり、以下の書籍を参考にしました。1962年の本の中でMattessichが示した公理系を日本語で再掲し、その意義について解説している章があります。


 

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