公理とはなにか。証明不要の命題がもつ「論理の力」について

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本記事では「公理 axiom」とは何かを解説します。

大学に入って学ぶ 抽象的な数学の中で、私たちはいくつかの公理を学びます。しかし公理を考える意義や、定義という言葉との違いについて、詳しく習う機会は少なく、曖昧な理解で済ませがちです。

本記事では公理とは一体なんなのか、理解に役立つ参考文献を挙げながら解説します。

公理とは、定義に関する了解事項

公理とは、議論の出発点となる共通の了解事項のことです。

ある概念を定義する際に「こういう性質を満たすものを、ほにゃららと定義します」という約束を置きます。その際に用いられる「こういう性質を満たす」という主張を公理と言います。

例:群(ぐん)の公理

群という代数学の概念を定義する際に、公理を用います。

ある集合が以下の4つの主張(群の公理)を満たすとき、その集合を群と定義します。

  1. 演算\(*\)が定義されていて、演算\(*\)に関して閉じている
  2. 任意の元に対して、結合法則が成り立つ
  3. 単位元が存在する
  4. 任意の元に対して、逆元が存在する

私たちはいま、群の定義、つまり何を群とよぶか、ということについて考えたいわけですが、上の4つの主張にすべて当てはまるものを群とよぶ、と約束しているのです。

この4つの主張(群の公理)を満たすものは何でも(たとえ数学の概念っぽくなくとも)、すべて群とよびます。

群の公理を示すことで「群とはこういうものです」という合意がとれます。群というものが満たすべき性質について、共通の了解事項を持つことができるのです。

犯しがちなミスと《知らないふりゲーム》

公理は概念を定義するために合意すべき事項です。公理に定められたこと以外の性質を群に求めるのはルール違反です。

例えば、演算\(*\)を行う2つの元の順番を入れ替えてもいい(交換法則\(a*b=b*a\))という条件は、群の公理に入っていません。

群の例として整数の集合\(\mathbb{Z}\)の中で加算\(+\)を考えたものをイメージする人は多いでしょう。\(\mathbb{Z}\)の元\(n,m\)に対して、\(n+m=m+n\)が成り立つので、交換法則は当たり前に成り立つと考えてしまいがちです。

しかし交換法則は群の公理には入っていませんし、群の公理から導かれる定理でもありません。したがって、群について議論している際に、勝手に交換法則を使ってはいけません。群の公理から導かれる命題のみが、群の性質として認められるのです。

このように、私たちが「既に知っていること」は、時として思考を邪魔します。よく知っている具体例に引きずられてしまうのです。

公理として定めたルールのみを使うという基本姿勢は、『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』では《知らないふりゲーム》と呼ばれてます。

公理は証明不要の命題なのか

公理は、概念を定義する際に用いる主張です。その主張が「正しいか、正しくないか」は、問題にしません。公理は議論の出発点となる約束事なので「合意するか、しないか」しかありません。

したがって、公理として与えられる主張は、証明する必要はないと言えます。

公理を使う際に必要なことは「公理が成り立っているか確かめる」ことです。

例えば、考察しようとする対象が群とよべるかどうかを確かめる際に「演算について閉じているか?」「結合法則が成り立っているか?」という確認を行う必要はあります。

しかし、それは公理を証明しているのとは違います。自分が注目しているものを群とよんでいいのか、数学者の了解事項に準拠しているかを、ただ確かめているだけです。公理そのものが正しいかどうか、ということを証明しているわけではありません。

 

公理の歴史

紀元前300年ごろの数学者ユークリッドが著した『原論』でも、公理が用いられています。

『原論』では公理を、数学的な推論において自明に成り立つような、誰しも同意するであろう主張、というニュアンスで用いたそうです。ユークリッドの公理を「証明不要の自明な真理」と表現することもあります。

ユークリッドは『原論』のなかで、定義と公理から議論を出発し、証明を積み重ねていくことによって理論を構築していきました。このようなスタイルは現代にも引き継がれており、例えば20世紀になってからも、フランスの数学者集団ブルバキの『数学原論』に影響を与えています。

ただし、公理という言葉が持つニュアンスは、ユークリッドの時代とは変わりました。時代を経ていくにつれ、「自明な主張」として認めた公理に反する主張を認めても、論理が破綻しない例が見つかり始めたのです(例えば、非ユークリッド幾何学)。

このあたりから公理の位置づけが変わっていきます。「誰もが納得する自明な真理」から、単なる「議論の前提」としての性格を強めていくことになったのです。

ブルバキは公理を「構造を決めるためのもの」と位置づけました。「証明不要の自明な真理」というニュアンスではなく、あくまで群や開集合といった考察対象の振る舞いを規定するルールとして公理を使ったのです。

従って、現代における公理は、真理というより議論の基礎なのだと言えます。

ユークリッドから現在に至る公理の位置づけの変遷は、以下のテキストのchapter 7で詳しく論じられています。

 

公理をおくと何が嬉しいのか

ある数学概念を公理によって定義すると、いったい何が嬉しいのでしょうか。

抽象化

その一つの答えは、抽象化です。

ある概念、例えば群の公理を定めると、その公理を満たすものならなんでも、群とよんでいいのです。自分が考察しようとしている対象が、あみだくじであっても、ルービックキューブであっても、複式簿記であっても、群の公理を満たすものはすべて群であり、群の公理から導かれる命題はすべて成り立ちます。

公理を定め、そこから演繹される定理を導いておけば、その公理を満たす具体的な対象のことを思い浮かべなくとも、数学的に有用な議論ができます。

『数学ガール/ポアンカレ予想』の登場人物である才媛ミルカさんは、公理の導入による抽象化について、こう言っています。

これさえ満たせばよい、という公理を定める。抽象度が上がってわかりにくくなるようだけれど、それは空へと飛翔しているのだ。そして地上を歩いているときには異なるように見えたものが、同じ構造を持っていることに気づく。同じ構造を持たせられることに気づく。それが、論理の力だ。

上に述べたルービックキューブや複式簿記は、それだけ見ても共通点はなさそうに思えます。しかし公理によって概念を抽象化することで、具体的対象からは見えてこなかった関係が浮き彫りになるのです。全く違う概念が、同じ視点で整理できるといってもいいでしょう。

具体例から離れ、概念を抽象化することで、一般的な命題を導けるのが、公理のメリットです。

無限遡及の回避

ユークリッドが「証明不要な自明の主張」として導入した公理は、議論の出発点として機能しました。裏を返せば、それ以上は追及しないという暗黙の了解でもあったわけです。

複雑な論理展開を要する数学において「なぜ?」を突き詰めると際限がなくなります。そのため、共通の了解事項を定める必要があったのです。

予めいくつかの主張を定めて合意しておくことで、こうした無限遡及を防げるメリットがあります。

まとめ

公理とは、概念を定義する際の要請であり、合意すべき了解事項です。公理を用いて概念を定義することで、その概念の構造が浮き彫りになります。

ときには、全く異なるように見える対象が、実は同じ構造を有していたことに気づけるでしょう。公理によって定義された抽象的な概念から命題を導けば、それはその公理を満たすどんな具体例にも成り立ちます。

また、議論の前提を共有することで、議論の範囲を明確化する効果もあります。

抽象的な数学を学ぶ際に、是非こういった公理のご利益を感じていただければと思います。

参考文献

群の公理については以下のテキストを参考にしました。代数学の華「ガロア理論」へと至る議論の中で、群論に関する理解を深められます。あみだくじの話題も、こちらを参考にしました。

記事中で取り上げた《知らないふりゲーム》は、以下の書籍でペアノの公理を学ぶシーンに出てきました。自然数という慣れ親しんだ概念を公理的に扱う際に、知っていることにつられてしまう様子が描かれています。また、「数学を数学する」ための公理についても触れられています。

以下のテキストでは非ユークリッド幾何学を例に、真理としての公理に反する命題を認めても別の数学として成り立つこと、それによって公理の位置づけが変わっていったことが述べられています。また、「カフェの席と飲み物」という現実的な例が群になるという話から、公理による抽象化と構造把握のメリットについても解説しています。

公理による抽象化、その「論理の力」は、以下の本の中で距離を位相へと抽象化する流れと関連付けて語られています。距離という具体的概念から開集合の公理による位相の導入によって世界が広がる様子が描かれており、私は鳥肌が立ちました。

 

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